ー備忘録(雑記)ー

古墳時代の始まり・前方後円墳の出現、人々は巨大なお墓を作る

学校の歴史の授業などで必ず習うと思われる「古墳時代」。

古墳時代とは、3世紀中頃から6世紀後半(7世紀始めくらいまで)の時代のことで、九州から東北南部あたりまで、次々と大きな(巨大な)お墓が作られていきました。

日本でいちばん大きな古墳と聞いたらみな教科書でもおなじみのあの形を思い浮かべるかもしれません。

日本でいちばん大きな古墳といえば、大阪府にある「大山古墳(仁徳天皇陵古墳・前方後円墳)」。

大きさは、525メートルあまり、なんでそんな巨大なお墓を人々は作っていたのでしょうか。

ここからは、私が読んだ本をメモしておきたくて書くことなので、変なふうに書いてあったり、もしかしたら、間違っていることが書いてあるかもしれません。

古墳以前のお墓・弥生時代の墳丘墓・

古墳は、かつて、いきなりというか突如現れたと考えられていた。

前方後円墳の起源については、そんな時代、最古の形もわからないなかで生まれたものが多かった。

しかし、日本では昭和30年以降、急激な開発にともなう発掘調査により、弥生時代に墳丘をもつ墓が数多く存在していたことがわかってきた。

方形や円形の周溝墓(しゅうこうぼ)や、台状墓(だいじょうぼ)と呼ばれるもので「弥生墳丘墓」と総称している。

近畿地方を中心とした地域では、おもに方形の周溝墓が造られた。

弥生時代初期から中期あたりでは、墳丘の大きさ、規模についての差は少なかったが、中期から後期あたりまでになると、他よりはひときわ大きなもの(墳長20メートル以上)が出現し始める。

農耕を営む均質的な集団のなかから、特定の有力者(首長)が、出現してきたのであった。

そして、それとともに、墳丘墓の階層差や地域差が目立ちはじめてきて、後半あたりから終末期くらいまで、その影響が一層顕著になってきたのであった。

方形周溝墓から前方後方墳

2016年、奈良県橿原市瀬田遺跡の発見により、近畿中部でも形式的変化の空白部が埋まり、両者ともに周溝墓の溝を渡る通路としての陸橋部が、埋葬にともなう儀礼の場として巨大化し、前方部となった。

けっこう端折ってしまったが、視力検査をするときの丸のしたに穴が開いている図を思い浮かべてほしい。

その開いているところが、どんどん伸びていき、おなじみの鍵穴型へと変化していった、ということである。

前方後円墳や前方後方墳も、弥生墳丘墓の展開の結果として、生み出された日本独特の形だった。

以上のようなことをふまえて、誕生したのが、奈良県桜井市にある「箸墓古墳」である。

箸墓古墳は、前方後方墳の墳丘、周濠、葺石、埴輪の祖型となった「特殊な墳墓儀礼用土器(特殊器台から円筒埴輪)」など、弥生時代各地の墳丘墓に備わっていた、諸要素もろもろが採用されていたから、それらを統合して、止揚するかたちで、新たな「古墳」様式が創出されたと考えられれている。

またこの箸墓古墳は、墳丘が280メートル余りと巨大であることも大きな特徴である。

それぞれの時期最大の古墳を当時の最高権力者、すなわち大王の古墳と位置付けると、箸墓古墳以降、約350年にわたって、一時的な衰退期(500年前後の古墳時代い中期と後期の過渡期)をのぞけば、大王墳は一貫して、200メートル以上の前方後円墳であることが定式化した。

各地で首長墳として古墳が築かれる・大王墳はその規範となった

各地の前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳(古墳の基本は四形式)は、基本的に、共通の様式のもと、墳丘の形と規模をおもな基準とする、格差の大きい序列的で階層的な秩序を形成しつつ、築かれることになった。

この古墳の秩序を成り立たせていた政治勢力は、考古学ていう「ヤマト王権」あり、墳丘の形と規模は、王権内における被葬者の政治的身分を表していたと考えられる。

箸墓古墳は、大王の出現と、大王を頂点とした政治体制(首長連合体制)であるヤマト政権の出現を端的に示すものにほかならず、ここに前方後円墳の時代、つまり古墳時代が始まったということができる。

古墳も墳丘墓のひとつであるが、弥生墳丘墓と呼びわけているのは、そのためである。

※参考にした書籍はこちら

いきなりあんな形のお墓が、突如として現れたのか!?と思っていたけど、弥生時代からの流れで、徐々に形を変えて、前方後円墳または前方後方墳という、鍵穴のような形になっていったんだと、勉強になりました。

そしてやはり、大王のお墓は大きくなければいけない、どインパクトのあるものは強い?のです。

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