木更津市には「金鈴塚古墳」という、古墳時代後期の古墳があります。
金鈴塚古墳は、前方後円墳だったようで、発掘調査が行われたときには、前方部はすでになくなっている状態で、後円部分しか残っていなかったようです。
金鈴塚古墳で有名な副葬品といえば、博物館の名前にもなっている通り「金の鈴」であります。
金鈴塚古墳の元の名前は「二子塚」と呼ばれていましたが、見つかった金鈴にちなんで「金鈴塚古墳」と呼ばれるようになりました。
「金の鈴」は、ほぼ純金!今もその輝きは失っていない
金鈴塚古墳の副葬品を見学できる博物館は、木更津市郷土博物館。
木更津駅から東口(太田山口)から徒歩20分。
太田山公園内に駐車場がありますが、西口の駐車場に車を停めると、博物館に行きやすいです。
太田山公園というだけあって、お山の公園のようで、駐車場に行く道は、ちょっとした傾斜でした。

入館料は、一般の方ひとり200円。
いや~、200円で、金鈴塚古墳から出土した金の鈴が見れるだなんて、安いもんだなあ~なんて思いながら、ヒーコラ階段を登って博物館へ向かいました。

金鈴塚古墳の出土品と、他に木更津市あたりから出土した旧石器時代の出土品や縄文土器、弥生土器、あと、木更津市の歴史などが見学できます。
ネタバレしてしまっていますが、金鈴塚古墳の展示スペースの入り口には、金鈴塚古墳の名前の由来になった「金の鈴」が展示してあります。
なぜ、ほぼ純金の金の鈴が、見事に現代に発掘されたかというと、金鈴塚古墳は未盗掘だったため、さまざまな副葬品が、そして、他に類をみないほどの数の遺物が出土したのです。
金鈴塚古墳から出土した装身具類は、金鈴(きんれい)、金銅鈴(こんどうれい)、金銅花形飾金具(こんどうはながたかざりかなぐ)などなど、博物館で購入してきた図録には、もっとたくさんの名前が記載されていますが(気になるかたは、ぜひ博物館に足を運んでください)、さまざまな装身具類がおさめられていたようです。
国内で唯一の金鈴は、双龍環頭大刀(そうりゅうかんとうたち)の周辺から出土し、金鈴は文字通り「金製の鈴」であり、純度は98%前後とほぼ純金です。
大きさは、1.2センチ、重さ1.2グラムほどで、古代の鈴の中では、もっとも小さいものです。



金鈴は、金地金を敲いて作られる鍛造鈴のようで、上部と下部を別々に敲いて半球に成形し、上半球部の端を下半球部の端で包むように合わせて中央の帯部を作っているようです。
上と下を別々に作り、そして上下合わせるときに、金の帯状のもので付け合わせる、みたいなイメージでしょうか(勉強不足ですみません)。

小さい鈴なのですが、これを純金で作れる技術、まあ、大きい古墳を作っちゃう技術があるんだから、古代の人たちって、本当に尊敬します(尊敬なんかい)
群馬県立歴史博物館でも思いましたが、こんなペーペーのど素人が思う古代人のイメージとは全く違う、工芸品というんでしょうか、その技術か本当に高いと思います。
昔作った工芸品を、いまの技術で再現できるかといえばできないと、どこかの博物館に行ったときに、聞いたことがあります。
鈴といえば、振るとチリンチリンと音がするものだと思い込んでいるのですが、この鈴は音が出るのでしょうか(そこらへん図録には書いていないような気がします)
この鈴を、古代の人は、装飾品として身体のどこかに付け(腰のあたりとか)、堂々と歩いていたに違いありません。
金鈴塚古墳が未盗掘だったこと、本当に良かったと思います。
装飾付太刀の出土数は全国最多の19振
金鈴塚古墳のもうひとつの特徴として「装飾付太刀」の多さにあると思います。

装飾付太刀は、6世紀から多くの主要古墳に副葬されるようになりました。
全国の出土状況は、機内を中心としたヤマト政権が権威の象徴として、各地の首長に分け与えていたとされています。
金鈴塚古墳は、こちらの写真にある通り、全国最多の19振の装飾付太刀が出土。
その種類も、単龍環頭太刀、単鳳環頭太刀、獅噛環頭太刀、そして倭装太刀などと、いろいろな装飾付太刀が副葬されていました。
金鈴塚古墳には、4人の方が埋葬されていたとされています。
それぞれの被葬者のそばに、これらの装飾付太刀が副葬され、装飾付太刀の本数、種類などで、それぞれの被葬者の性格を示していると思われています。





頭椎大刀は、古事記・日本書紀にその名が見られる大刀で、こぶしを握ったような柄頭が独特のフォルムの大刀です。

こちらの大刀は、東日本で多く出土する傾向があるようで、こちらを保有する理由があったのかもしれません。

金鈴・装飾付太刀の他、展示されている副葬品

もじゃもじゃと、遠目から見たら、ちょっと気持ち悪そうな、赤い矢印のあるものがあります。
これは「金糸」で、古墳から出土するものとしては極めて少ないものです。
大量に金糸が残されたましたが、何に使われたのか、普通の糸のように使うことはできないので、文様として面的に布の上に置いて、細い糸で留める駒縫いという手法が用いられたのではないかと思われるようです。


群馬県立歴史博物館でも見たような気がすると(覚えてないんかい)思いながら見ていました。
見たような気がすると思っていたら、図録には、ちゃんと綿貫観音山古墳について記載がありました。
こちらの鈴は、豪華な大帯を飾る鈴としてつけたと思われます。
こんな大きな鈴をつけた帯をしめている人を見たら、現代でもインパクトありますよね。

そして、副葬品「馬具」について

馬は、古墳時代の人たちの権力、軍事、そして暮らしを大きく変えました。
長野県伊那地方などでは、大きな牧での飼育が始まったとされています。
千葉県内では、5世紀後半から馬の存在が顕著になるようで、馬具については、千葉県内の古墳からちょこちょこと馬具が出土しているようです。
古墳から出土する馬具については、私がいままで行ってきた博物館などで、たくさん見てきましたが、こういうのもあるんだと思ったのは「銅馬鐸」です。
馬の胸元を見ますと、3つ弥生時代で活躍していた銅鐸に似た形のものがぶら下がっています。
金鈴塚古墳からは、1つの遺跡から出土する銅馬鐸の数が全国最多で、6点の馬鐸が出土しています。


馬鐸を吊り下げていたと思われる吊り金具も2点出土しています。
馬鐸は、5世紀から作られているようで、6世紀後半になると、下端の半円形の抉りが深くなり大型化することが知られているようです。
ああ、絶対に重いはず。。。お馬さん。


新しい文化の兆し・仏具4点

上の金色に輝いている銅鋺は、復元銅鋺です。
当時も、あのように光輝いていたのでしょうか?
眩しくて直視できないっ!(私は、絶対に庶民だろうから、一生見ることはないだろうけど)

須恵器も、全国最多260点あまり出土しているようです。

金鈴塚古墳を発掘調査しているところを再現した模型があります。

千葉県にもこのような古墳が存在していたんだなあと、改めて感動しました。
金鈴塚古墳に埋葬されていた人は4人いたと思われています。
それぞれの被葬者のそばには、先ほど紹介した装飾付太刀などの副葬品の置かれた方向が異なることから想定されたようです。
私が購入してきた図録(本にはガイドブックと書いてある)「金鈴塚古墳出土品 ガイドブック・煌めく金鈴塚」の最後に詳しく書いてあります。
今回の内容は、こちらのガイドブックを参考にしています。
いま、こちらの本を読んで、どのように関東らへんに前方後円墳が作られていったのか勉強中です。
関東周辺に暮らしている人たちが、いきなり前方後円墳などを作りだしていったわけではなく、どういう歴史的背景と、人々の移動などで、関東周辺に古墳が築かれていったのか、とても分かりやすく書いてある本です。
金鈴塚古墳は、6世紀後半の古墳ですが、千葉県には3世紀前半に、同じ木更津市で、前方後円墳風の弥生墳丘墓が作られています。
古墳時代の前半から、もっと勉強していろいろ知りたくなった今日この頃です。
金の鈴、一見の価値ありです(^-^)