ー博物館・美術館ー 釈迦堂遺跡博物館

中央自動車道にある釈迦堂PAから行ける博物館『釈迦堂遺跡博物館』

9月5日から一泊、上高地の「徳沢ロッジ」へ泊まりにいきました。

その際、中央自動車を利用して車を走らせていたのですが、ふと「中央自動車道といえば・・・釈迦堂遺跡!まだ時間もあるから、ちょっと寄って行こうかな」と思って、釈迦堂パーキングエリアに行きました。

中央自動車道にある釈迦堂PAから行ける「釈迦堂遺跡博物館」

釈迦堂PA下りから、階段を登って行くことができる「釈迦堂遺跡博物館」。

釈迦堂遺跡博物館にも、十台くらい車を停めることができる駐車場があります。

釈迦堂遺跡は、中央自動車道の建設工事に先立って、発掘調査が行われた遺跡です。

発掘調査の結果、旧石器時代から縄文時代、古墳時代、奈良時代、平安時代の住居や墓などの遺構、特に、縄文時代の遺構、遺物は豊富で、学術的にも価値が高く、調査中から全国的に注目されていた遺跡です。

釈迦堂遺跡から出土した「しゃかちゃん」の看板
専用階段から博物館へ行きます
博物館の入り口

釈迦堂遺跡といえば、多数の土偶の破片

そして、どうしてこういうデザインが思い浮かぶのか羨ましい土器「水煙文土器」が有名じゃないでしょうか?

釈迦堂遺跡は、最近リニューアルオープンし、とってもキレイな博物館になりました。

常設展示室は、2階で、階段を上がり(エレベーターもあります)、まず最初に、釈迦堂遺跡の出土品に会いに行きました。

縄文時代の概要

縄文時代は、旧石器時代が終わり、そこから約1万5000年ほど続いた時代を言い、縄文時代の縄文は、土器に縄目模様がついていた土器が発見されたことに由来します。

縄文時代中期になると、山梨県、長野県にまたがる中部高地一帯では、遺跡数・遺物量がともに増大し、この一帯が日本の中心地だったと考えられます。

特に、釈迦堂遺跡は、縄文時代中期を中心に重要文化財である1116点を超える土偶をはじめ、30トンにもおよぶ土器や石器などが出土する中部高地の遺跡の中でも、特徴的な遺跡です。

土偶の破片がたくさん!土偶の表情、身体の表現など、多種多様です

ずらりと並ぶ土偶の破片

土偶とは、縄文時代に作られたひとがたの土製品です。

土偶は、なんのために作られたのか、今現在になっても、正解というか、これだという答えは見つかっていません。

土偶とは、女性像、病気などの身代わり、装飾品、埋葬具、儀式の祭具など、所説ありますが、その中でも、女性像(おもに妊婦さんの姿)をしている女神像として、生まれてくる命の健やかな成長や豊穣を願ったという説が有力です。

そして、土偶はだいたい割れた状態で見つかることが多いようです(故意に壊す)

土偶の破片
土偶の破片
すごい数ですね
土偶の模様もわかります
足でしょうか?(私にはひとの足に見えます)手かな?
つなぎ合わせれば、人型になりそう
表情豊かな土偶の顔

釈迦堂遺跡では、190点もの土偶の顔が出土しています。

土偶の顔をよく観察してみると、耳に孔が空いているものがあり、それが耳飾りの孔だと考えられています。

耳飾りには、土製、石製、骨製のものがありますが、釈迦堂遺跡からは、土製と石製が出土しています。

このうち、土製には「栓状耳飾り」と「けつ状耳飾り」があります。

栓状耳飾りは、円筒状または円盤状の形をしていて、ピアスのように耳たぶに空けた孔にはめ込むように使い、けつ状耳飾りは、古代中国の玉器(ぎょくぎ)である「けつ」に似ていることから、この名前がつけられました。

縄文時代「栓状耳飾り」(茅野市尖石縄文考古館)
北海道「入江貝塚」の装飾品

土偶からは、縄文時代の人たちがどのような髪型をしていたのか、どのような装飾品をつけていたのかなど、縄文時代当時の流行??みたいなのを知ることができます。

釈迦堂遺跡では、土偶の出土例が非常に多いにもかかわらず、その接合例は15例にすぎません。

遺跡内からは、230メートル離れた場所で出土したものが接合している例もあり、土偶の一部が故意に移動されていることがわかります。

バラバラにされた土偶の欠片は、お守りのように持ち運ばれていた可能性が考えられます。

土偶(しゃかちゃんとしゃっこちゃん)
耳らへんに孔が空いている
髪型も独特
ふたりの髪型
表情豊か
土偶の頭が展示されています
こういうお顔の土偶もいらっしゃいます
女性の胸の表現でしょうか
女性と思われる顔と胸
縄文のビーナスと同じような土偶の下半身

釈迦堂遺跡でも、縄文時代前期の土偶が、出土しています。

縄文時代前期の土偶

縄文時代早期の土偶は、はっきりとした顔た足などの表現はないものの、女性の胸が表現されたものなど、小さなものでしたが、縄文時代前期になってくると、板状の土偶になり、はっきりと顔の表現がある、人の形をした土偶へとなっていきます。

説明看板

釈迦堂遺跡は、土偶だけじゃない!土器も多種多様!中でも、水煙文土器は、見ごたえあり

縄文時代の時の流れとともに、土器の模様、大きさなどの違いがわかる展示になっています。

博物館の奥にある、縄文時代の土器たち
説明看板

釣手土器は、縄文時代のランプともいわれ、釣り下げるための釣手がついた土器です。

内側には、煤が付着していたり、熱でもろくなったものが多いことから、儀礼時に使用されたのでは、と考えられています。

さまざまなデザインの釣手土器
面白いデザイン
模様も独特

では、土器の移り変わりを見ていきます。

縄文時代早期の頃の土器
左から3個目にある土器の模様が気になります
何を表しているのでしょうか・・・
ものすごく、意味ありそうな感じです

縄文時代中期あたりから、このような複雑な文様や立体的なデザインが多くなってきます。

縄文時代早期から前期は、縄文時代としての始まり、中期あたりになってくると、縄文時代が頂点?になってきた頃。

そして、縄文時代後期から晩期(晩期あたりは短い期間)、そして、新しい時代、弥生時代へ移り変わっていきます。

釈迦堂遺跡の『水煙文土器』

水煙文土器は、水煙りを思わせる、ゆるやかで美しい曲線を用いて表現された立体的な曲線文を持つ土器で、山梨県甲府盆地を中心に出土する縄文時代中期の土器です。

口縁部に連続する火焔のような三角形文様と大きな把手が特徴の新潟県を中心に出土する火焔型土器とともに、縄文時代中期の造形美を代表する土器となり、ダイナミックでありながら、柔らかな曲線で飾られた把手は二手(4個)からなり、渦のように廻りながら少しずつ変化させるのが、火焔型土器との大きな違いです。

甲府盆地から出土する水煙文土器は、甲府市の安道寺遺跡出土のものなど、いずれも大型で優品が多くみられます。

水煙文土器
説明看板
緩やかな曲線で飾られた把手

土笛・土鈴(土偶年表)

土鈴は、どのような音がなるんでしょう。

カンカンと高い音でしょうか?

土笛と土鈴
翡翠と黒曜石
土器の変遷

釈迦堂遺跡博物館は、中央自動車道のPAから直接行ける博物館です。

やはりこう見ると、山梨県・長野県は、縄文時代の銀座、にぎやかなところだったのかな?と思います。

縄文時代って、本当に、学校の勉強だけじゃ足りないものがたくさんあり、もっとさまざまな日本にある博物館へ行くことによって、本当の縄文時代がわかるような気がします。

自分の想像を超えた、縄文時代。

いや~、本当に面白いですね。

※参考書籍

釈迦堂遺跡博物館「展示案内」から。

おまけ

博物館から見える釈迦堂PA下り
縄文時代にも、このように山々が見えていたのでしょうか

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