5月1日土曜日、群馬県高崎市にある『保戸田古墳群・かみつけの里博物館』に行ってきました。
久しぶりの古墳巡り、すんごく楽しみ。
しかも、古墳巡りしに行くぞ!と、会社の有給を取って行ってしまった私(笑)
というか、コロナの影響で、有給を使う頻度?みたいなのが減っていて、1日でもいいから、そろそろ消化していかないとなと思って、土曜日に有給を取ってみました。
かみつけの里博物館は、関越自動車道『前橋I.C』から、15分くらいだったと思います。?
そんなに遠くはなかった印象。
たいてい古墳の周りは長閑な風景で、そこにポツンポツンと古墳が鎮座している、そんな古墳あるある風景です。
かみつけの里博物館の前に駐車場あります。
駐車できる台数は、10台以上くらいあったかと思います。

この日の天気予報は、雷雨予報で、どうなるかビクビクしていたけど、大雨にはならなくて良かったです。(途中、ポツポツきていたけど)

葺石が向こうに見えるけど、あれが古墳『八幡塚古墳』です。

いまさら思ったんだけど、かみつけの里博物館のかみつけのは、ここ一体に呼ばれていた『上毛野(かみつけの)』という言葉ということなんだといまさら知ります(笑)
博物館内は、撮影禁止場所以外は、写真撮影オーケーです。
私は、ひとりバシバシ写真を撮っていましたが(笑)

かみつけの里博物館は、保戸田古墳群の出土品を中心に、展示がしていある博物館。
なので、博物館の規模はワンフロアのみで、そんなに大きくありません。
以下、自分が気になった展示の写真です。
かみつけの里博物館の近くに『三ツ寺Ⅰ遺跡』があります。
三ツ寺Ⅰ遺跡は、上越新幹線の線路建設にあたって、発見された遺跡です。
しかも、日本で初めて発掘された古墳時代の豪族の館跡(居館)でなのです。

居館とは、簡単にいえば、首長または領主などが住む豪華なお宅、といったことろでしょうか。
発掘された遺跡は、一部のみだけど、博物館に展示していある模型は、発掘した遺跡をもとに、復元された模型です。

1500年前、5世紀には、このような建築というか、あったんだから、本当にすごい。
すごいというか、自分のイメージとは、全く違う世界が広がっていたんだなあと思うと、本当に興味深いです。


保戸田古墳群は、豪族の館、集落、水田や田畑、そして、墓域(古墳)と、上毛野を代表する?大きなムラでありました。






集落の模型。
結局、想像だけど、このように人は暮らしていたんだなあ~と妄想すると面白い。


日本には、大阪にある仁徳天皇陵古墳を始め、大きな前方後円墳など、さまざまな形の古墳が存在します。
あんな大きな古墳、この時代にどうやって作ったんだろうと、こんな大きな古墳、当時の技術でできるの?なんて思っちゃうのが普通かと思われますが、自分もそう思っていました。
でも、こうやって実際発掘され、いろいろ調査されてわかることを見てみると、当時の技術って、想像を超えたものがあるとわかります。

かみつけの里博物館に、こんな感じに古墳は作られたという模型があります。
それが面白くて、けっこう長く見ていました。
古墳づくりは、当時でいえば、かなりの一大事業であり、みな一丸となって、ひとり(または複数人)の王(領主などの偉い人)のために作る墓です。
そんな多くの人が、ひとつの目標物?を作り上げていくのが、本当にすごい。

これだけ大きい古墳を作るので、担当の部署?(今風に言えば)があったようです。
埴輪を作る人、古墳の形を設計する人、葺石に使う石を取ってくる人などなど。
規模が規模なだけに、埴輪など必要な数量みたいなのが、とてつもなく多い。



こんな人たちもいたかもしれない(笑)
サボっているわけではないと思うけど、たまには息抜きもね、みたいな。

上毛野で生活していた豪族ほか、ムラの人たちは、榛名山の2度の噴火により、ムラが土石流、火山灰などで覆われてしまい、多くの死者、もちろん生き残った人もいるだろうけど、大多数の人は、この地を離れていってしまったと思われます。


日本のポンペイと言われる『保戸田古墳』
榛名山の噴火の影響で、当時の生活の時が、とても良好なかたちで、見つかった。
かみつけの里博物館とそばにある前方後円墳を見学して、当時の人たちの生活を雰囲気を感じられる、とても面白い博物館です。