題名に、博物館めぐりと入れてしまったが、古墳プラス博物館へ必ず行くようにしているので、古墳巡りと博物館巡りとセット品、というか、古墳やら古代のこと、歴史のことを深めようとするならば、必ず博物館に行くことをおすすめする、というような、ちょっと偉そうなことを言って、ブログを書き始めようと思います。
前置きがかなり長くなったが、家の比較的近くにある公園に、古墳群があるということを、Googleマップで知りました。
こんな近くに古墳があったなんて!という感動と一緒に、ちょっと自分の住んでいる地域について、もっと知ってもいいのではないか?そこへ行けは、縄文時代や弥生時代、古墳時代などについての出土品が見られるかもしれないと思いまして、家から車で15分くらいのところにある「八千代市立郷土博物館」へ行ってみました。
国道16号を柏方面へ行くときに、毎回、左側に「八千代市立郷土博物館」という看板を目にしていました。
古代史にハマる前は、そんな看板を見ても、何も興味がわいてこなかったが、ついに!その気持ちが覆るときがきたのです(笑)
国道16号から左に曲がると、住宅街にありがちな細い、車両対面通行ギリギリな道路に入ります。
そのくせ、交通量が多いという。
細い道を走っていると、右側に大きい建物が見えてきます(家ではない建物)
最初、駐車場はどこだ?と思ったけど、門を入って左側に5台ほど車を停められるスペースがあり、私が着いたときには、車は一台もおらず、もしや今の時間の訪問者オレだけじゃね?なんて心配になったが、中には私を入れて5人ほどの見学者がいました。

住宅街の中にあるので、かなり周りが静かです。
それも、私に不安要素をあたえた?原因のひとつかもしれません。


「なりたミち」
江戸時代に、成田山新勝寺へ行く成田詣に行く人たちが多くいました。
今は車で渋滞の成田街道だけど、昔は人で渋滞(はしなかったと思うけど)した賑わった街道だったに違いありません。

なぜ、なりたミちの「ミ」は、カタカナなのか。
と、言葉を投げかけてみたはいいのですが、思うに、みって岩に彫るよりも、ミのほうが簡単だったんじゃないかなあと、想像ですけど、そのように思えなくもないですか。
ご丁寧に、方向を手で表現している、おもしろい。

八千代市立郷土博物館は、入館料無料です。
コロナウイルスの感染対策は、ちゃんと行われていました。
女性の方に、左側は企画展、右側が常設展示ですと、説明をうけたので、せっかくだし、企画展を見ていこうかなと思って見学してきました。
しかし!!出た!!あの怖い怖い人形というのかなんというのか。
写真なんか撮ってくるんじゃなかった!!
怖い、怖すぎるよ!

簡単に説明しますと、江戸時代、印旛沼あたりに田んぼを開拓?しようとして、工事をしようとしたところ、このような怪物というか妖怪が出てきて、13人ほど死亡、3人が重症を負うという事件があったらしいのです。
その事件が、当時の記録として残っており(イラスト付きで)、その記録といろいろな人の証言をもとに、こちらの怪物が制作されたのだという。
いやさ、リアル過ぎでしょ!(特に顔)
文献に記録されいた絵は、筆でスラスラと描かれていた、簡単な絵でした(その絵は展示していあります)
私はこの人形が怖すぎて、郷土博物館に勤務できないです・・・(することはないけど)
いや、慣れるのかどうなのか、かわいいと思っちゃうのか・・・いや、そんなの怖い。
ちなみに、この日は「新川」という川についての企画展でした。
気を取り直して、常設展示を見に行きました。
なんか今でも目をつぶると、その怪物が浮かび上がってくるんで怖い・・・
まずは、縄文時代から。
縄文大国山梨県と比べると、こじんまり感は否めませんが(当たり前)でも、意外といろいろな土器が出土しているんだなあと感心しました。


こちらは弥生時代の土器らしく、面白い文様がついています。
羨ましいかぎり、センスが良い。

埴輪たち。
女性の埴輪らしく、面白い頭をしています。
帽子かな?髪の毛かな?ひとり素人らしく妄想をしていました。

古墳時代の土器たち。

栗谷遺跡の説明文。
ここに、方形周溝墓と書かれていたので、つい写真に撮ってしまいました。
前方後円墳、円墳などは見学しているが、方形周溝墓もこの目で見てみたいです。

栗谷遺跡の集落の模型だったと思います。
南側に家が建ちならび、北側に方形周溝墓が並んでいるとの説明。
この説明文を読んで「北枕」について思い浮かんだが、ウィキペディアの北枕の項を読むと、弥生時代なんかと全く関係がないようです。
でも、北の方向に方形周溝墓を作るという理由は、もしや何かあったかもしれない、のかな?(笑)
太陽が昇る方向と沈む方向は、けっこう重要だったはずだけど、北と南って当時はどうだったんでしょう(方向が意味すること、とか)

石棺と石枕。
やはり、石枕は必須らしいです。
古墳に入れられる人ってだいたいそこの集落の偉い人なわけだから、地べたに頭をそのままにするということは、失礼なのか、ちょっとこれはどうかなあ~みたいな気持ちにさせて、やっぱり枕っているよね~みたいな感じになるのか、そこらへん想像の域ですが、どうなんでしょう(笑)
というか、現代でも、亡くなった人を棺に入れるとき、枕がりますよね。
それより、この頭の下に敷く「枕」というものはいつ生まれたのかしら。
やはり、大陸から伝わったモノのひとつなのか、それとも、藁などで作っていたものが進化して塊(藁以外で作られた塊)になったのか、ウィキペディアの枕の項を読めば解決するような気もしなくもないです。

石棺と石枕の説明文の下にある写真が気になりました。

石枕の周りに穴が7つ開けられているようです。
そこに立花という、花の形?をしたものを刺すらしいのだけど、立花は発見されていないようです。
華やかなだなと思うのと同時に、石を器用に形づくる技術がすごい。

土師器と須恵器の違いが、ここでよくわかりました。
土師器の技法は、弥生土器の延長線上にあり、どの形式から土師器なのか土器自体から決定することは難しい。
須恵器は、大陸からその技法が伝えられ、いまでも行われる窯焼き製法です。
土師器は、野焼きもしくは、焼成坑(地面に小さな穴を掘る)製法。
と、ウィキペディアには書いてありました(え?)

須恵器は轆轤を使用して作るらしく、器の底がきれいにスパッと平です。

この「こしき形土器」面白かったなあ。
そこにある穴のキレイさが、すごいと思いました。
見栄えも考えているのか?(見栄えより機能だと思うけど)と思っちゃうくらい、キレイに穴があいています。




この文字が書いてある土器もまた面白いなあと思って見ていました。
願掛けの意味を込めて土器に文字を書くらしいのですが、しかも、イラスト付きです。
文字を書ける人ってどれくらいいたのか、そこが不思議でした。
たぶん、偉い人が主だったと思うのですが、あと限られた男性だけどか。
女性も、それなりに身分が高くないと書けないだろうなあとも思います。
だから、この土器に文字を書いた人の素性が知りたくなりました。
当時はこの文字の形を見てどう思っていたかわからないけど、私が見る限り達筆だなと思います。
しかも、絵もうまい。

ということで、古代史あたりの展示をじっくり見て、あとはスラ~と簡単にだけど、見学して、博物館をあとにしました。
有名な博物館とかばかりにしか行っていなかったけど、改めて自分の住んでいるところの歴史を勉強してみると、なるほどなあと思えるおもしろい発見があるもんだなと感じました。
自分の住んでる地域の歴史について、勉強してみるのもいいかもしれませんね。